修証義を味わう・連載

修証義を味わう・Facebook 連載

◎ 修証義を味わう 16

第二章 懺悔滅罪

 《 仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり、是れ一切衆生(しゅじょう)を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり、人天(にんてん)誰(たれ)か入らざらん、 彼(か)の三時の悪業報(ごっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)も、懺悔(さんげ)するが如きは重きを転じて軽受せしむ、 又滅罪清浄(めつざいしょうじょう)ならしむるなり。 》

 やはり、こう来ましたね。厳密に言えば、人は、悪い事を、罪づくりをなくす事ができません。生きるという事は、他の命を頂く事になるからです。それで、和尚の修行道場では、他の動物の肉が食事に出てこないのは、ご存知ですね。

 もっと進んで言えば、植物でも命と言えるんでしょうね。(動きが目に見えにくいので命と捉えにくい)そう考えていくと、食べるものが無くなり、生きて行けなくなります。そこで、動物の命までとしてるんでしょうね。

 それでどうしても、懺悔をして滅罪する必要が出て来ます。この章では、その事について書かれています。つい過ちをしてしまっても、仏祖は、広大の慈門を開かれて滅罪を行なっていると言ってます。前出の三時の悪業報でも懺悔すれば、重い罪を軽くしたり、滅罪し清浄にしてくれる。

 なぜ、懺悔(仏教では、さんげ と言います)があるかといえば、それまでの過ちの道から、脱却して正しい道に戻るとても大切なチャンスになるからです。これが無いと、なかなか正道に行けなく六道輪廻になってしまう。

◎ 修証義を味わう 15

 《 惜(おし)からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて悪の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず。 》

 これで、修証義の第1章が終わっています。この最後でダメ押しですね。よく考えてみたら、因果の法則しか言ってないような・・・そして、極め付けがコレです。

 悪を造りながら悪にあらず・・・そのままですね。ちょっとくらいいいよなー、みたいな感じでしょうか。悪の報果はないだろうと邪思惟(じゃしゆい)・・・いわゆる逃れるために言い訳をする事でしょうね。あるいは、いい風に考えてしまい、上手く丸め込む。( ピンキリでしょうけれど、あるでしょうね )

 まー、それで、仏教では、懺悔(さんげ)と言って、悔い改めています。自分では気が付かない小さいものでも、相手を不愉快にさせてしまったりすると、結果が後から来たりしますよね ? 汗  ( 私も鈍感な方なので、よくありますが )

 それで結論としては、悪と言われるものは、しないに越した事はない、してはいけない。それは何故か、道から外れてしまうから、迷いも苦悩も絶えないよ、だから、止めなさいと。

◎ 修証義を味わう 14

 《 但(ただ)邪見に堕つるのみに非(あら)ず、悪道に堕ちて長時(ちょうじ)の苦を受く。当に知るべし今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し、三つ無し、徒(いたず)らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得(かんとく)せん 》

 迷いの世界を、地獄,餓鬼,畜生の三悪道と言ったりします。あるいは、もっと詳しく言えば、天道,人間道,修羅道,を加えて、六道と言ってます。迷いですから、展転と移り変わったりするので、輪廻と言ってます。実は、輪廻というのは、あの世のことではなくて、この世のことも言い表しています。

 本当に心得なければならないことは、この生涯は、たった一度しかないと。この生の内に六道から離れて悟りの世界に行かないと、悔やんでも悔やみきれない。

 ただ邪見(悪いことをしたら悪い結果になるという因果の法則を否定する考え)に落ちて、虚しく時を過ごしているのは、なんと勿体無いことだろう。

 さて、生きていると悪い事もしてしまいますから、悪い事をしないようにと言うよりは、それよりももっと多く良い事をしようと考えた方が良いでしょうかね ? そんな時には、お寺に寄付をしてみて下さいね。(笑)どこのお寺でもいいんですよ。そう、縁のあるお寺で。(笑)

 ※ ここでは、悪とは、考え違いのことを言っています

◎ 修証義を味わう 13

 《 仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、其の最初よりこの三時の業報(ごっぽう)の理を効(なら)い験(あき)らむるなり、爾(しか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕つるなり。》

 お釈迦様から伝わってきているこの仏道を習う前には、この三時の業の報いをハッキリと心得なければならない。三時については、前の章を見て下さい。

 もしそうでないと、分からないだけでなく多く錯覚してしまい、邪まな見方に陥ってしまいます。私たちが考えていることは、その場だけの断片的なことになることがありますが、実は、過去から続いていて、ようやく現在現れたということが多いので、その結果について見誤ってしまう。

 この考え方が身につくと愚痴が言えなくなりますね。(笑)
これって、何代前のご先祖の悪行とか考えたりして・・・(笑)
ましてや、子供から返ってくる言葉なんて、まず自分の悪行 ?? って考えてもいいかもねぇ〜。(笑)

◎ 修証義を味わう 12

   《 若し因果亡(ぼうじて)虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべからず。 》

善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり、
一者(ひとつには)順現報受(ほうじゅ)、
二者(ふたつには)順次生受(しょうじゅ)
三者(みつには)順後次受(じじゅ)、これを三時という

 もし因果の法則がこの世にないとしたら、諸仏などこの世に出現する訳があろうはずが無い。なぜなら、悟らない凡夫が、因果の法則により、修行を積んで、善積の功徳により悟りが訪れ仏祖となるからだ。インド、中国、日本へと連なるお祖師様方が三国に渡って来られる訳がない。

 善悪の報果(結果)が現れる時期として、三種類ある。
一、順現報受・・・直ぐに現れる
二、順次生受・・・しばらく時を置いてから現れる
三、順後次受・・・ずっーーと後になってから受ける

 それで、これだけしたのに、結果が現れないと嘆く時がありますが、その時は、二番目か三番目だなとか、思ってみるのも良いかもしれない。ずっーーと後と言ってますから、もしかすると、あくまでももしかするとですよ・・・自分が生きている間ではなく、子供の代に出てくるかもしれない。

 えぇ、当然考えられますよね、この状況は、善であれ悪であれ、もしかしたら前の代の結果として今出ているのかもしれない。これは、仏様でもわからないことですね。

 だから、良いことをしておかないと、自分ではなく、次の代、その次の代が、泣くことになるかもしれない。

◎ 修証義を味わう 11

 《 大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし、造悪(ぞうあく)の者は堕ち、修善(しゅぜん)の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり。 》

 この世は、因が有れば、結果がある。因がなければ、果もない。つまり、嫌な結果になりたくなければ、その因を無くせば良いことになります。ところが、そんなに単純ではなく、色々な因が重なり合っているため、どれがどうとは言えなくなりますね。その状態を縁と言います。

 この因果の道理は、歴然としていて間違いがない。そしてそこには、私が入る隙間がない。悪いことをすると、悪い結果となり、その反対も間違いがない。( これ、3回目くらいの繰り返しですね ? )

 毫釐、毛筋ほどの間違いもない道理だ。これを改めて念には念を押して来ました。余程、みんなが疑っているんだということが、推察されますね。  

◎ 修証義を味わう 10

 《 今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世(さんぜ)を知らず、善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず 》

 因果の道理は、とても大切な仏教要素になります。これを避けて通れないと言います。それは、生まれて来たのも死んで行くのも、因果の道理だからです。業(おこない)の報いは、明らかで、過去の因果が現在の自分で、現在の因果が未来を作ります。

 この因果の法則を無視している人たちと一緒にいると、その影響を受けてしまうので、止めておいた方が良い。

 さて、また別の例えを持ち出して改めて説明しています。これは、基本的な捉え方だから、改めて念を入れて説いています。行いは難し なので、何度も言うのでしょうね。

 ここで、何が善で何が悪なのかと言う難しい問題が出てくるでしょう。先ずは、法律・規則に反しないこと。その次には、通例・エチケットに反しないこと、ここまでは、通常のことになり、仏教では、当たり前としています。ようやく、その次に行うことから、仏教の範囲に入って来ます。

 ここからは、何になるのでしょう ? 表に出なくても、心の中で悪いことを思っても考えてもいけないと。心の中のことを問うのが、仏教の範囲になって来ます。  

◎ 修証義を味わう 9

 《 熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢(お)うべからざる多し、無常忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親昵(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり己(おのれ)に随(したが)い行くは只是れ善悪業等(ごっとう)のみなり 》

 往事(過ぎ去ってしまった事)には、再び会うことはできないし、突然、無常が訪れた時には、国王、大臣、親戚、部下、妻子、貴重な宝は、なんの手助けにもならない。たった1人で、黄泉(冥土)へ赴くしかない。自分自身に付き添うのは、善悪業などだけだ。

 出ましたね、ぴしゃりとハッキリ言っています。上記の理由で、善悪業が問われますよと、厳しく釘を刺された。ところが私たちは、この事がピンと来ないんです。ちょっとくらい悪いことをしても大丈夫じゃないのかと、邪推してみたり、その結果がすぐ現れるわけではないし、と。

 私たちの現在の結果は、祖先、先祖、などがして来た善悪の結果とも言われています。もちろん、生まれてからは、自分の善悪の結果も含まれて来ます。さて、これをどうしたものでしょうか ??