2014年1月5日
第二一 雲門屎?

 『如何なるか是れ佛』とある僧が雲門和尚に尋ねたら、『乾屎?』と答えた、と言うのが今日のお話です。

 この手の話は、今までにもありました。第十八則では、麻三斤でしたね。また同じスタイルですから、同じ話になってしまいそうです。

 先ずは、『乾屎?』ですが、屎を乾かす棒と考えて頂いていいと思います。ただ、何の意味もありませんから、これ以上深く考えないでください。『麻三斤』もそうでしたね。それ自体には、意味がありません。意味があるように言いますけど、騙されないようにして下さいね。もう一つは、それを聞いてピンと来ればその言葉( 乾屎? )の働きは終わりです。もちろん人に依りピンと来るものが違うので、何とも言えないですが。

 正月五日には、CATVの取材を受けました。お寺に伝わる
『円空佛』が目当てのようでした。その中で、聞き手の方がいきなり質問してきました。何と聞かれたか忘れましたが、とっさに、

『日本人の心』と答えてました。おそらく、最近考えている事とか、伝えたい事とか、だったかな・・・二月の後半に放送されるそうなので、見て下さい。最近、私の中では、この言葉がテーマです。それで間髪入れずに飛び出してきました。もちろん、いろんな意味を含んでいますが、やはり、思いやりの心とか、人のため行うとか、そんな事は、直ぐに思い浮かぶと思います。特に、エチケット、礼儀が乱れてきています。これは、心の現れですから、心の乱れを如実に表現していますね。なぜ憂うかと言えば、大切なモノが伝わらなくなるからです。伝わらなくなれば、人類の多大な損失となるでしょう。私たちは、運良く日本人ですからその心を大切にしたいですね。

 道から外れてしまいましたが、その言葉で何を思い出すかは、誰にも分かりませんが、何かを考えて欲しい、何かを伝えたい事は感じてもらえそうかなと、簡単な言葉にしました。ただ、『乾屎?』には、かなわないですね。笑

 まあ、『如何なるか是れ佛』と言われても答えられないところを言わなくてはいけないから、何でもいい訳なんですがね。そう言う点で言えば、『日本人の恥』と言っておけば良かったかな。しまったな。その方が、インパクトがある。

 『衆生、本来佛』と言われるのに佛と思えないのはなぜか、という疑問があるのは仕方ないし、それでも佛だから大丈夫かな。 

 悪い事をしていても佛だし、成功しなくても佛。では、どこが違うか。そこが気が付かないので、雲門和尚は、屎かき棒と言った。分からない本人のことではなく、佛のことを言ってます。

 考える事で、良い事もあれば、悪い事もありますね。この場合、悪い事が多いので、雲門和尚は、考えが及ばない処の事を言った。そこが、佛だと。

 やはりまたここに戻ってくる。『知らぬが佛』私たちは、全知全能の神になりたがる。残念ながらそれはムリな話しだ。一つを得るのに一つを失う。どこまで行ってもキリがない。無限の世界が佛。

投稿者 神光山 成願寺 : 16:12 | 寺便り | - | -

2013年12月3日
第二十 大力量人

 松源和尚が言うに、『健康で筋肉隆々な人が、なぜ、足を使って立てないのか?』と。 これが、今日の第一問です。何の事か分からないように尋ねるのは、禅の特徴で注意を与え、首を傾げて考えてもらうのが目的です。

 一休和尚で有名なトンチとはちょっと違いますが、似たところがありますね。これがヒントですが、なんと答えましょうか。

 禅ではこのように応えます。『健康な人なら足を使って立ったり歩いたりしてないので、全く問題ないです。』とかは、どうでしょう。詳しくは、また後にして、第二問へ進みましょう。

 松源和尚が第二問を出した。『健康な人が話をする時に、舌を使わないのはなぜだ』これは、類似問題ですね。道具を変えただけです。同じ意味の質問をしています。歩く時の道具『足』と、話す時の『舌』を出して考えて頂こうという事ですね。

 もうお分かりでしょうか? 題名になってます大力量の人とは、悟ったとか悟らないとかに関わらず、先ずは健康な人と考えた方がいいですね。健康な人は、立つ時も歩く時も、足の事など意識しない。つまり足を使うなんて思った事がない。同様に、話す時に舌を使うなんて思った事がない。つまり、舌は無いのと等しい。どちらも健康を害すると、突然、足が必要になり、舌を動かす必要が出てくる。

 うちの東堂は、杖が必要になったし、私も立ち上がる時に、手の支えが必要になる時が多い。

 さて、ここまでだと、一休さんのトンチで終わってしまいますが、ここからが今日の話のメインになります。

 松源和尚は、私たちに何に注目してもらいたかったのでしょう。
 どちらの話も、『無意識』が共通している事が、お分かりでしょうか?無意識と言うよりは、意識を使わなくても大丈夫だ。使うという意識さえも無いところのコトを言って欲しいみたいですね。

 それが何の事か、他の例を見てみましょう。例えば、ピアノやギターを最初に習う時、手が思うように動かないですね。ところがプロが弾いているところを見ると、手が何処に動いて行っているのか分からないほどの速さでも間違えなく弾いてます。まるで、手がない様です。この領域の事を言っていますが、プロになれと言っている訳ではありません。悟っても悟らなくても私たちの事を言ってます。

 もう一度元に戻って見ましょう。赤ん坊は、直ぐに歩けません。歩く練習を相当してやっと歩いてます。話すことも、かなりの練習が必要ですね。この様にして私たちは既に出来ています。意識しなくても出来てしまってます。この事を既に誰でも悟って居ると言う事があります。呼吸も寝たり起きたりも意識を使わずにできていることを指して言ってます。それなのにそれに気がつかずに悩むことを迷いと言ったりする訳です。何もしないでも誰でも既に幸せな状態にある事に気が付けば、『大力量人』です。しかしこれが難しいだけで、教えは簡単です。とても簡単ですね。行いが難しい程、やる気が出ますか? (笑)

投稿者 神光山 成願寺 : 16:09 | 寺便り | - | -

2013年11月5日
第十九 平常是道

 これは、私たちが日頃よく使う「平常心」という言葉の出処のような有名な話です。

 スポーツの監督が選手に『平常心で行けばいい成績が出せる』すると選手が、『平常心って何ですか?』監督は困って、『平常心って平常心だよ』とよく言ってます。

 昔、武士が真剣で相手と立ち向かった時、初めての際は動揺したでしょう。慣れてくると心を上手くコントロールできるようになり、それを無心と言ったり平常心と言ったりしてたと思います。

 ここで言う平常心は、また違うものになります。前にも出てきた趙州和尚が師匠の南泉和尚に、『如何なるか是れ道』と尋ねました。すると、『平常心是れ道』と答えました。朝から晩まで、毎日していることが道だと言われたので、趙州和尚はさらに尋ねました。『どうしたら、その道に叶うことができますか』師匠は、『道に叶おうとすれば、かえって不自然になり、道から外れてしまう』

 ここでようやく、私たちもいだく共通の疑問を趙州和尚がしてくれます。『道に叶おうと努力しないで、どうやって道に叶ったと分かりますか』すると、師匠の南泉和尚は、『知ることが道でもないし、知らないのは、なおさら道ではない。本当に道を知れば、是とか否とか文句の付けようがない。』趙州和尚は、是れを聞いて大悟徹底された。

 禅問答では、ほんの僅かで答えが出て終わりになってしまう。が、その答えが何のことか見当が付かないので、延々と長い話になる場合がほとんどです。

 私もまだ書くスペースがありますから、なんとか埋めたいと思います。(笑)まぁ、誰でも道に叶って生活をしている訳ですから、よく言う「そのまま」でいいわけですが、どうしてもそれをよしとできないし、納得や安心が得られない。そこで初めて修行や確信が欲しくなると言う図式になります。

 知ることは、悩みの始まりと言います。だから、サルよりも人の方が悩みを多く抱えているでしょう。知った事に依り、悩みも一緒に引き受けなければなりません。そこから、「知らぬが仏」と言われるのでしょうね。

 ところが、悩みも道の中のことですから、「煩悩即菩提」と言われます。煩悩と菩提(悟り)は、正反対の事と思って居ると、この方程式はいつまでたっても解けない事になります。煩悩=菩提が溶けるとようやくスタートラインに立てると言われています。なんで悩みが悟りか考えて見ると面白いかもしれませんね。趙州和尚や南泉和尚が言われた事がヒントになりますよ。

 そこでもう一度、『平常心是道』今ちょうど本堂の室中にかかってます。読み方は、一般的に平常心をへいじょうしんと読みますが、仏教や禅では、びょうじょうしんと読む事が有ります。ここで、意味も違うことを訴えかけて居るのでしょうか。

 『さて、眠いから寝るか』これで、道に叶っていますね。『眠くても仕事があるから、寝られないな』これも、道に叶っていますね。それでは、どこが不味いのでしょうか。その不味さを感じるところに原因がありそうです。こうでなければならないと言う観念が、邪魔をしてそうですね。それが、この煩悩=菩提の方程式を解けなくしてそうです。

 どの禅話も共通したテーマがありますから、もう、お気づきの方もいるかもしれません。毎回同じ話になてしまい申し訳ありません。

投稿者 神光山 成願寺 : 15:50 | 寺便り | - | -

2013年10月5日
第十八 洞山三斤

 今日のお話は、とても簡潔で良いですね。いつもは、ストーリーがあったりして、まずそれを理解するのに時間がかかってしまいますが、今日は、そのままずばりで単純です。

 ある層が、洞山和尚に尋ねた。「如何なるか是れ仏」そうしたら、洞山和尚は、「麻三斤」と答えたと言うとても有名な禅問答です。

 まず、洞山和尚は、十五則で出てきた方です。曹洞宗の名前になったと言われる洞山禅師とは違う方ですが、この公安が有名になってしまった。それから、「麻三斤」ですが、直ぐ側にあったんでしょうか、麻が三斤。三斤というのは、物の重さの単位のようです。手で一掴みくらいの重さともいわれています。 すると、どういう事なのか、さっぱり分かりませんね。仏教系の大学に行くと、色々な概論を教えてくれます。探す方向とか、探すものなどを学びます。その内、居場所がハッキリしてきたとしても、とにかく範囲が広くて探しても求められない事に気が付きます。暫くすると、当たりが付いてきて、かなり絞られてきます。

 ところが禅問答では、そういう事を扱わない範囲になりますので、これがまた、分からなくなります。当たりが付いていればいるほど、分からなくなるかもしれません。運転免許証で言えば、前者は、学科、後者の禅問答は、実地になりますかね。

 それほど違うと、両者の融合は、なかなかお目にかかれないかもしれません。

 さて、当たりが付いているばっかりに、こう言うはずなのになぁ、が先に立ってしまい、実地が
おろそかになってしまいます。これが迷いになりますが、

 さて、皆さんは、学科と実地の融合は、いつ有ったのでしょうか。そんな事より、車に乗れば乗るほど、うまくなるものですね。禅問答もまったく同じだと思います。乗れば乗るほどうまくなります。 そこで、ある僧が、仏とは一体なんですか、と尋ねたら、麻が三斤か、あるいは、三斤の麻か、と答えた訳ですから、ビックリしますね。実は、ここでは、学科も実地もしなければならないので、クチャクチャになってしまいますが、その麻三斤の意味は、仏という事しか分かりません。

 ここで、「麻三斤がなぜ、仏になるのか」を考えてしまうのが、学科です。そのまま「麻三斤」と聞くのを実地とします。これで、ここでは、ここまでを学科としますと、これから、学科にならないよう実地で聞いてください。(笑) 

 皆さん、こんな事なかったですか? 何かを聞いた拍子に、凄くいい事を思いついた。まさしく、この場面がそうなんです。麻三斤を理解した訳でもなく、お悟りが分かった訳でもありません。ほんとに、いい事を思いついたんですよ。そのタイミングは、絶妙というしかなく、今までの道しるべがようやく無駄ではなかった事になる瞬間ですね。

 しかし、それまでは、考えるなといっても考え続けてきたお陰で、その瞬間が訪れますから、それも、種になって居たかもしれません。サスペンスドラマで言えば、犯人が分かる瞬間は、人それぞれのタイミングによりますから、楽しみも人それぞれですね。

 とりわけ私の場合には、何と言う事にしましょうかね?「和尚さん、仏とは、何んの事かねぇ?」と聞かれたら、今なら、「壊れた塀」と言おうかな。皆さん、ビックリしたでしょ? (笑) 何か閃きました? 閃いたら、もしかして?

投稿者 神光山 成願寺 : 15:37 | 寺便り | - | -

2013年7月5日
第十七 国師三喚

 国師と呼ばれた慧忠禅師は、侍者の応真に向かって三度喚んだら、返事を三度返した。それを師は、「お互いに独立独歩で宇宙を呑却して悠々自適だなぁ」と言った。これが今日の問答です。

 同じような問題がちょっと前にありましたね。第十五の「洞山三頓」ですね。実は同じ問題と言っていいのですが、聞き手が違うと別の問題になってしまう事になります。それは、聞こえているはずなのに三回も呼ばれると、何かあるのかなと思ってしまうところでしょうか?

 「洞山三頓」では、師の問いに対して色々迷ってしまい尋ね直して、ようやく大悟したが、ここでは、この後のことに付いて書かれていないが、おそらくこのままなんでしょう。慧忠禅師は、侍者の応真と遊ぼうとしたのですが、どうやら、応真は、遊んでくれなかったようです。(笑)

 無門和尚の言うには、「国浄うして才子貴く、家富んで小児驕る」だと。実にうまい事を言うものですね。国が平和になってしまうと、俳優や芸術が珍重され、軍人などは顧みられない。また、家が裕福になるとその子供は驕り高ぶる。と言う事になりますが、これは、どこの事を言っているのでしょう?

 どうやら、無門和尚の診立ても侍者の応真は、大悟していると見ましたね。それは、慧忠禅師は、もう侍者に教えるものがなくなってしまい、問答すると言う戦いがなくなってしまったことに喩えたんでしょう。

 また、侍者の応真は、師弟の関係ではあるが、尋ねる事がなくなってしまったので、師匠と肩を並べてしまったため、驕り高ぶっているような子供に例えた。どちらも良くできた比喩ですね。

 さて、問答に戻ってみて、三回喚ばられ三回答えたことから、そこにどんな意味合いが隠されているのでしょう?

 悟りと言うのは、迷いがあるから生まれて来たとします。迷いがなくなれば、悟りもなくなります。つまり、何もなくなってしまうわけですね。それを本来の様子と言ったりします。生まれた時は、そんな状態ですが、人は、色々と知恵や考えが発達すると、それによって汚れてきます。それを迷いとすると、それが消えて元に戻った状態を指しているのでしょう。

 これで、今日は、皆さんも迷いが消えたと思いますが、いかがでしょう? 元々、どなたでもそういう状態なのですが、色々な話や意見に耳を傾けて居る内に、深い迷いに誘われてしまうだけの事ですから、ここで眼を覚まさなくてはいけませんね。(笑)

 と私も、国師に習って問題を出してみましたが、聞き飽きた方は、侍者のように食い付きもしないのかもしれません。(笑)

 もうお話しすることはないのですが、ここで、迷いと悟りが出てきましたので、幸と不幸も考えて見ましょう。

不幸が消えた状態を幸とします。そうすると、幸と不幸が入れ替わり出現する事になりますが、それは、どう捉えたらよいのでしょうか。これは、よく考えるとどちらも消えない限り、延々と続いてしまう事が分かりますね。一喜一憂しないことになりますが、そうであったとしてもそのままと言う事になります。

 人は誰でも、迷いより悟りが良いし、不幸より幸がいい。ところがこれこそが、最初の原因となっている事に気が付かせる問答であったと思わせるような気がしてきました。しかし、ホントに昔の人は思慮深いですね。

投稿者 神光山 成願寺 : 15:35 | 寺便り | - | -

2013年5月5日
第十六 鐘声七条

 今回より原文の読み下し文を略していきなりお話に進みたいと思います。

 題名は、話を思い出すときのメモ書きのようにして書かれていますから、最初の時には何の事か分からない場合がほとんどだと思います。今回も鐘の声と七条では、まったく何の事か分からないのですが、雲門和尚が出した問題は、「お寺にある鐘を鳴らすと和尚さんたちが七条と言うお袈裟を付けて、次から次えと出てくるのはいったいなぜなんだろう。」と言うのが、今回の禅問答です。

 単純に、そのように決まっているから、と答えてしまうと、それで終わってしまいますが、それを承知で尋ねていますね。

 分かりやすい例に直して考えてみると、「どうして桜の木は、桜を付けるのか、なぜ、梅は咲かないのか」と言う感じでしょうか?

これも、決まっているからでは、何も生まれない。かつて、ニュートンの話で「りんごが木から落ちるのを見て気が付いた」と言うような事が言われていましたね。私たちで言えば、そんなことは当たり前じゃないのか、と思ってしまいます。 

 さて、春のお彼岸の法話で話したのですが、人間は大したことはない。記憶がなくなれば、動物とかわらない。ちょっただけ記憶が良いため、理論や理屈が言える。ただ、そのために、それに振り回されてしまうマイナス面を持っている。

 長所が短所になる事って皆さんもよく経験していると思いますが、誠に厄介なものですね。例えば、長所として、「計画性がある」と言う裏には、「臨機応変に弱い」があるかもしれないし、「雄弁」の裏は、何でしょう、「よく話してうるっさい」かな? 「社交性がある」の裏は、八方美人と受け取られるかもしれない。

 またそれに、理屈を付けると、延々としてぐるぐる回ってしまう。これを輪廻転生と言ったりします。私たちは、どうして理屈が欲しいのかと言えば、落ち着きどころを探しているのでしょうか。それで一安心したいのでしょう。落ち着き処は、あった方がいいのですが、堂々巡りになってしまうような処では、本当に安心はできないですね。

 そのためには、理屈や理論から離れるしかないでしょう。では、どうやって離れるか?

 最後に無門和尚が次のように言っています。「もし耳をもって聞かば、まさに会し難かるべし。眼処に声を聞いて、まさに始めて親しからん」

 答えは言ってくれたもののこれが何のことか難しい。「もし耳をもって聞かば、まさに会し難かるべし。」これは、先ほどお話した、堂々巡りになると考えてみていいと思います。それじゃ、どうしたらよいのかと言えば、「眼処に声を聞いて、まさに始めて親しからん」がその方法になるのでしょう。眼で声を聞くとは、どうすればいいのでしょう。とにかく、堂々巡りから離れることがコツなので、暫くそれを続けていると分かるかもしれませんね。長所が良いとは限らないし、また、短所が悪いとは限らない。自分のなすべき事を淡々として行えば、眼で声を聞く時がやって来るのでしょうね。理屈や理論などの縛られるものから開放された時、自由な境地が現れるでしょう。

 佛教でよく言う「善因善果、悪因悪果」ですが、普通に見れば、そのようなことは確かに多いのですが、そうとばかりはいえませんね。これに説明を付けると今すぐに現れない、その内そうなるものだ、と。ところが、もっと早いのは、その事から離れること、結果を求めないこと、期待しないことの方が、早道で、良いことを淡々と続けることが、安心できるのだと思います。

投稿者 神光山 成願寺 : 15:22 | 寺便り | - | -

2013年3月5日
第十五 洞山三頓

 《雲門、ちなみに洞山参ずる次いで、門、問うて曰わく、近離いずれの処ぞ。山云わく、査渡。門曰わく、夏いずれの処にか在りし。山云わく、湖南の報慈。門曰わく、いくばく時か彼を離る。山云わく、八月二十五。門曰わく、汝に三頓の棒をゆるす。山、明日に至って、却って上って問訊す。昨日、和尚に山頓の棒をゆるすことを蒙る。知らず過いずれの処にかある。門曰わく、飯袋子、江西湖南、すなわちいんもに
し去るか。山、ここに於いて大悟す。》

 雲門和尚は、雲門宗という一派を開いた方です。そこへ洞山和尚が参禅に来た。(洞山良价禅師とは違う)そこで、師匠の雲門和尚は、第一問を尋ねた。「どこから来たんだぁ」すると、洞山和尚は、「査渡です」と答えた。

これは、一般的な会話ですね。それで、師匠は、第二問を発します。「夏は、どこに居たのか」すると、洞山和尚は 「湖南の報慈寺に居ました」と世間話をしてしまった。うーん、師匠も困っているかな。そこで、第三問を出してきました。

 「いつ、そこを出てきたんだぁ」すると、洞山和尚は、また、「八月二十五日」と答えた。そこで、師匠は、本音を言われた。 「三回も尋ねたのに、何にも答えられないとは、棒を食らわしてやる甲斐もない、早く立ち去れ」洞山和尚は、普通に答えたのに、何が悪いのかさっぱり分からない。一晩中考えていても分からないので、とうとう、次の日に、また参禅して、真正面から、「昨日は、どこが悪いのか教えてください」と、尋ねた。

ようやく、まともな質問をした訳ですね。棒でなぐる価値もないと言われて真剣になったのでしょう。すると、師匠は、「江西湖南だとか、わき見ばかりして、ふらふらしているからだ」と言われて、洞山和尚は、ハッとして大悟したというお話です。

 洞山三頓とは、洞山和尚が三回尋ねられても、鈍感な事言っているのを指していると思われますが、実は、これ、相当に修行が出来上がっているか、まったくそんな事など意識していないかのどちらかになりますが、洞山和尚、相当に修行されていたから、師匠から尋ねられても、普通に答えられたと見たほうがいいのでしょう。

 だからこそ、最後の一手で、大悟されたんでしょうね。
 逆に、雲門和尚に、たとえ佛法にそった答えをしたとしたら、まだまだ時間がかかっているかもしれない。 (笑)

 そうすると、良かったのか悪かったのか、さっぱり分からない事になりそうです。こうなってくると、やはり、この話のオチは、深いと言わざるを得ませんね。
 この作者、無門和尚は、雲門和尚の指導が手ぬるいと言ってますが、笑ってしまいますね。( ここで笑ってね )

投稿者 神光山 成願寺 : 16:27 | 寺便り | - | -

2012年5月25日
寺便り 2012年 5月

 『無門関』から
  
  第十四 南泉斬猫

 《南泉和尚、ちなみに東西の両堂、猫児を争う。泉すなわち提起して云わく、大衆、道い得ばすなわち救わん。道い得ずんばすなわち斬却せん。衆、対うるなし。泉、遂にこれを斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙似す。州すなわち履を脱して頭上に安じて出づ。泉云わく、子もし在しなば、すなわち斬児を救い得たらん。》

 とても有名な話なんですが、直ぐそばにいたんでしょうか猫を捕まえて、云えたら、この猫を助けるが、云えなかったら、この猫に切りつけるぞ、と、南泉和尚は、修行僧に禅問答を迫った訳です。

 云うと言うのは、何について云うのかと言えば、「仏道とは何か」「悟りとは何か」 「自己本来の面目」と言うような事が相場になっています。

 また、猫は、何かを指しているのか、それは何なのか、も考えてしまうかもしれません。猫じゃなくてもよいのですが、仏法や禅では、斬るとあれば、妄想や迷い、思慮分別などを指す事が多いので、それを指しているとも考えられます。私が思うに、南泉和尚は、実際には、猫を切ったとは、とても思いませんが、話として迫力を持たせ、問答に深みを付けるための効果だと思っています。もちろん、そういう勢いを見せて大衆(修行僧)に迫ったんでしょうね。 ところが、答える大衆は、誰もいなかった。晩になって、趙州和尚が、外から帰ってきたので、経緯を話して、和尚なら、どう答えるかと尋ねた。

 そうしたら、草履を脱いで、頭に載せて帰ってしまった。その事について、南泉和尚は、趙州がその場に居たら、斬児を救うことが出来たのに、と言っています。つまり、これが答えなんですが、これが何を指しているかが、問題になりますね。

 三島由紀夫の『金閣寺』の中で、主要なモチーフとされて扱われているそうです。また、いろいろな解釈本が出されていて、読めば読むほど、分からなくなる感じがしたものです。また、仏性を扱った公案とされる事もありますが、この最後を説明するには、ピンときません。実は、どう捉えても、説明できてしまう一点に帰ればよいと言うことに気がつけば、それ程気にすることはないでしょうね。

 禅問答では、答えを言わずに答えなければならないところが、説明し難くて苦慮しています。成願寺本堂の東西の柱にかかっているのを聯といいます。西側の聯にありますように、「火中雪花を生ず」に通じていると考えてみました。火の中に雪の花を見た事実を示して帰ってしまった。これはそのものであって、他に解説の仕様がないので、これでお仕舞いです。皆さんなら、なんって言いますか? 草履を頭に載せる事にこだわらないで、自分の答えを考えてみるのも楽しいですね。

投稿者 神光山 成願寺 : 14:18 | 寺便り | - | -

2011年7月3日
寺便り 2011年 7月

 『 無門関 』 から
  
  第十三 徳山托鉢

 《 徳山一日托鉢して堂に下る。雪峰にこの老漢、鐘未だ鳴らず、
鼓未だ響かざるに、托鉢していずれの処に向かって去るやと問われて、
山、すなわち方丈に回る。峰、岩頭に挙似す。頭云く、大小の徳山、
未だ末期の句を会せず。

山、聞いて持者をして岩頭を喚び来たらしめ、問うて曰わく、
汝、老僧を肯わざるかと。岩頭密かにその意を啓す。山すなわち休し去る。
明日陞座、果たして尋常と同じからず。岩頭、僧堂前に至って、
掌を拊して大笑して云わく、且喜すらくは老漢、末期の句を会することを得たり。
他後、天下の人、伊をいかんともせじ。 》

 今日は、ちょっと長くて複雑な物語なので、限られた紙面では説明し難いですね。

 先ず、徳山和尚が食事の合図をする鐘や太鼓などの鳴らしものが鳴らないのに
出てきたので、その弟子の雪峰和尚が師匠に言ったら、師匠は、何も言わず方丈に
引き返した。

 その後、雪峰は、兄弟子の岩頭に話した。岩頭は、雪峰がまだ、最後の言葉を
解かっていない、と感じた。それで師匠と密かに話をして、雪峰を褒めてもっと
修行をさせることにした。

 次の日、僧堂にてみんなの前で、「とうとう雪峰和尚は、末期の一句を得ることが
出来たぞ。」と言った物語です。

 まぁ、想像するに雪峰和尚は、素直な気持ちで、「師匠、まだ鳴らしものが
鳴っていませんよ。」 みたいな軽い感じで言ったんでしょう。

 ところが、岩頭和尚に言わせれば、わざわざ言うほどのことでもないと
いう気持ちを雪峰は、まだ理解していないなと睨んだ訳です。

 そこで、師匠の徳山和尚と岩頭和尚が密かに相談をして、雪峰和尚もなかなか
修行が進んできているから、褒めることによって大悟させようとしました。それで、
真っ白な心で師匠に何気なく「まだ鳴ってないですよ」と言った事を次の日に
修行僧が集まる僧堂で、雪峰和尚を褒めてあげた。

 その後の話は、ここに書かれていないけれど、歴史に名を残す立派な和尚になられています。

 では、雪峰和尚は、この時、何が不足をしていたんでしょうか? と言うのが、
今日の公案ですね。すぐに言えれば、あなたも、岩頭和尚に褒められます。
いゃ、褒められちゃいけなかったここでは。(笑)

 つまり、けなされようと褒められようと本当に納得、体得をしていれば、
自分だけでほくそえむ事が出来るという話ですが、それまでは、長い道のりを過ごす訳ですね。

 仏道の場合、「誰でもが既に悟りを得ている」という立場にあります。後は、
それをどう受け取るかが、修行になり、人と比べて自分の立場をこの世間に見るのではない
と言う基本を外さない事が重要になってきます。「 人人具足、箇箇円成 」 ですね。


投稿者 神光山 成願寺 : 08:08 | 寺便り | - | -

2010年12月20日
寺便り 2010年 12月

 『 無門関 』 から
  
  第十二 岩喚主人

 《 瑞岩彦和尚、毎日自ら主人公と喚び、また自ら応諾す。すなわち云わく、惺々著。諾。
他時異日、人の瞞を受くることなかれ。諾、諾。 》

 禅では、「主人公」という言葉がとても有名になっています。おそらく出典はここからだと思います。
 一般的に使っています主人公とは違う意味ですが、似ている点も有りますから、よく間違えて
しまいます。

 よく言うのにドラマの主人公は、○○です。と言うのが、すぐに頭に思い浮かびました。
この意味で言えば、そのドラマにおいて、一番中心になる人物と言うことで、誰でもなれる
わけではありませんね。

 禅の場合には、誰でもが、「主人公」になれます。なれると言うよりは、既になっているのですが、
なかなかそれに気がつかないので、あえてこの様に名前をつけたり、公案を出したり、
坐禅をしたり、目が覚めているかと言ったり、はいはいと言ったりしていますね。

 それでは、瑞岩和尚は、どういう意味で言ったのでしょう。またある時別の日に、
「人の瞞を受くることなかれ」と言っていますから、主人公を言い換えたのかもしれないと考えても
いいようですね。

 そこで、こちらから考えて見ましょう。
道元禅師の言葉に、 「 眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず 」 と言う言葉が
永平広録にあります。この場合、人にだまされると言う感じで捉えていいようですから、
この場合も、同じような感じでいいかと思います。

 大体の感じはわかりましたが、この後が説明しにくいですね。それでは、騙されるというと、
いったい誰にだまされるのか、と尋ねてみましょう。

 他人から騙されたのか、それとも、他人に騙されたと思った自分に騙されたのでしょうか? 
これは、両方としておきましょう。それはそう思ってしまった時点で、主人公が怪しくなってくるからです。

 これで、少しは主人公に迫れたでしょうか。なかなか難しいですね。ここでは使っていませんが、
主人公の中には、みんなのリーダーシップをとると言うような意味合いもあるようです。
ここでの意味で主人公を実現できていますと、自然と結果的にそのような状況になる場合が
ありますが、そういう意味を指すものだと理解してしまうと、誤りになってしまいますので、
よくよく注意が必要になります。

 とにかく、主人公と言うのは、そういう能力があろうとなかろうと、誰にでもなれることですから、
能力に左右されないものです。本来、生まれながらに自分たち個々に備わっているものを指している
事が、よく理解できると思います。背伸びしないで、本来の自分になることですね。

投稿者 神光山 成願寺 : 08:02 | 寺便り | - | -

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