無門関 第四十三 首山竹篦

第四十三 首山竹篦

首山和尚は、竹篦を皆に示して、これを竹篦と言うと「則ち触る」といい、何も言わないでいると「則ち背く」と言われる。さて、それでは何と言えば良いのかというのが今回の質問になります。

このタイプの質問は、今までに何回もありましたね。
先ずは、竹篦ですが、師匠が弟子たちに指導する時に使う指示棒のようなものです。物は何でもよさそうです。それをAとしましょう。

例えば、「今度の海外旅行 Aは、参加しますか?」
と聞かれ、Aは、行ったことがないので行きたい、Aは、もう行ったから行かないとどちらも言ってはダメなんですね。どちらも「則ち触る」になるからです。それでは、尋ねられてその質問に答えないと「則ち背く」に当たってしまいます。それではどうするかというと、皆さんも使うことがあると思いますが、Aとは、言わず全く別の話題で、話して終わりにする。(笑)

「触る」も「背く」もクリアしていますからいいようですね。いいのですが、何がいいのでしょう。言い逃れをしただけの様に感じてしまいませんか?

さてそこで、この質問をして皆さんに何を感じて頂きたいのか、ここがポイントになります。

「おもてなし」という言葉が流行りました。「おもてなし」と言って、おもてなしをしてもそうならない事が多いですね。そうではなくて「おもてなし」をいかに表現するかという本質を心得てなければ相手に伝わらないでしょう。

お寺で先祖の供養する事も大切なおもてなしになりますね。おもてなしの心を表現したのが法要という形で表れています。考えてみて下さい。お霊供を上げる、供物を用意する、お寺にお布施してお経をあげる、お塔婆上げる、線香蝋燭を上げる、お墓にお花を上げる。どれをとっても尊い行いばかりですね。言葉では表現できないですね。これを、「不立文字」といいます。文字では伝わらない。そんな時、どう伝えますか?という投げかけですね。どんなことにも当てはまると思います。

 

無門関 第四十二 女子出定

第四十二 女子出定

文殊菩薩がお釈迦様に佛座の近い処で女子が坐禅三昧に入ってます。どうしてなんですかと尋ねたら、お釈迦様は、自分で本人に聞きなさいと。

そこで、文殊菩薩は、坐禅三昧になっている女子を出定(三昧から呼び戻す)するため女人の周りを三回巡り指を一下した。女人は、三昧から出て来なかった。

すると、お釈迦様は、罔明(もうみょう)菩薩に頼んでみると、女人の前で指を一下(指を鳴らす)すると、女人が禅定から出てきた。

今日は、とても話が長いですね。結局、位が上の文殊菩薩が下の罔明菩薩に負けたという事になりそうです。さて、本当にそうなんでしょうか? (笑)

ここで、定とは、何でしょう。無を指しているとします。定から出る事は、その反対の有になりますね。この世の中の状態をあえて区別してみると、この無と有に分かれます。この様に分けて考えること自体、既に有の世界に入ってしまいますが、この事にポイントを置いてこの話を考えてみて下さい。色々と考えられて面白いですね。例えば、この女人は、本来入る事の出来ない佛座の部屋へなぜ入れたのか。とか、菩薩の中で一番の文殊菩薩が、後輩である罔明菩薩になぜ負けたのか。とか、お釈迦様は、どんな役目をしているのか。

さて、これらを答えたら、この話は卒業です。この無門関も四十八話で終わりになります。あと少し、頑張ります。

話に戻ると、文殊菩薩は、どうして負けたのかと考えてみると、この話がさらに面白くなるような気がします。ストーリ展開としては、意外性を狙ったかもしれませんし、表面的には勝たせた感じで、読者に考えさせているとも思います。ただ突き詰めれば、勝敗は、関係なくなることがお判りでしょうか。文殊菩薩は、本当に負けたのでしょうか? 罔明菩薩は、本当に勝ったのでしょうか?

別の観点から、見てみましょう。女人は、なぜ罔明菩薩の時に目を覚まし、文殊菩薩の時には、目を覚まさなかったのか。女人の視点から見てみると、罔明菩薩は、見えたけれど(認識できたけれど)文殊菩薩は、見えなかっただけではないのかと。すると、もう既に勝敗には、関係ない事がお判りでしょう。

こんな感じは、世間でも多く、何を重要と考えるか、そこがポイントになります。見えている世界だけでなく見えない世界も大切ですね。

無門関 第四十一 達磨安心

第四十一 達磨安心

達磨大師は、お釈迦さまから数えて、二十八祖になり、セイロンの方ですが、仏法を中国に伝えた方になります。二祖様は、慧可大師で、その名を神光と言います。うちの山号は、神光山と言いますが、慧可大師の名前を頂いたかどうかは定かではありませんが、親近感を覚えますね。

達磨大師から数えて二十三祖に当たるのが如浄禅師で、道元禅師の正師になります。この様に、お釈迦さまからの直系になるのが曹洞宗です。その法は、道元禅師により、日本に伝えられました。その前から仏教は日本に伝わってましたが、それは別の流れだったのです。修証義に「人身得ること難し、佛法おうこと希れなり」とあります。人に生まれる確率はどれだけになるんでしょう。動物は、百万種、植物が、二十万から三十万種だそうです。人に生まれるだけでも凄いことになりそうです。それから、佛法に巡り会う確率は、天文学的数字でしょうか?お経は読んでも、この寺だよりはなかなか読まないかも。(笑)

さて、もう一つの題名が「安心」で仏教では、あんじんと読みます。慧可和尚が、達磨大師に質問した。「まだ、安心してないので、安心させて下さい」と。
するとこんな事を言った。「心を持って来たら、安心させてあげるぞ」

何だか、変な事を言っているようですが、この質問がとても大切なんです。すると、
慧可和尚は、「その心を求めてみましたが、捕まえることができませんでした」と。すかさず、達磨大師が云うには、「ほら、安心させてやったぞ」と。

これを言われて慧可和尚は、はっと気付いたであろう。これが、慧可大師の誕生秘話です。

後は、どれだけなり切れるか。物事が何でも決まってないと不安な人は、難しいかもしれませんが、慧可和尚のように、思い悩むと道が開けて来そうです。死ぬことは、いくつになっても嫌なことです。もうよいという時はないでしょう。ですが、迎えが来たら行くしかなくこの世の習わしが嫌でもしょうがない。そんな不安な心は、どこにもなかったのが、今日の話の落ちですね。

さてこれが出来れば、天文学的数字に出会えたことになります。有り難いことではないですか。この世に生まれて最高の喜びと言ってます。この様に人に伝えることがどれだけ難しいかお判りでしょう。本堂の屋根瓦、トイレの再建、塀の新築などのようなお寺にあるものは、これから支えてくれる将来の方達へのメッセージとなるであろうと思っています。ただどこまでそれが伝わるかは、不安が無いわけではありません。ただ信じて続けるしかありませんね。

 

無門関 第四十 趯倒浄瓶

第四十 趯倒浄瓶 ( てきとうじんびん )

為山和尚は、百丈禅師の下で修行してた。百丈禅師は、もう何回も出てきていますね。ここで、禅師は、為山和尚と、その時の首座に問題を出します。首座とは、修行者の第一座と言われる地位になります。為山和尚は、この時典座という役職にありました。そしてこの問答に勝ったなら、この寺を出て修行道場を開きお寺を構えることができるという特典付きです。

修行者が何名居たのか分かりませんが、かなりのイベントになりますから、全員が集中して、見守っていますね。そこへ、禅師が、問題を出します。二人の前に浄瓶を置いて『この浄瓶を浄瓶と言わないで何という』と尋ねました。浄瓶とは、手を洗うのに使う水を入れておく瓶です。

それで浄となっています。先ずは、首座が答えます。「浄瓶は、やはり浄瓶でしょう。まさか浄瓶を下駄という訳にはいきませんから」と。動かない心今流で言えば、ブレナイですかね。次に禅師は、為山和尚に振った。すると、和尚は何も言わず、浄瓶を蹴っ飛ばして出て行ってしまった。

さて、何を意味しているのだろう。「こんな問題にお付き合いしている暇はない」辺りでしょうか?

それよりも禅師はどんな振る舞いをしたのでしょう。
百丈禅師は、ニコニコしながら、
「首座和尚は、典座(為山)和尚に負けたわい」と仰られ、修行道場を開かせることになった。
最初は、まったく修行者が集まらなかったが、最終的には、千五百人を超えたと言われています。

無門関を著した無門和尚は、百丈禅師のワナに引っかかって為山和尚は典座より重い責任を負うこととなった。と難癖を付けたような言い方をしているが、衆生を救うという菩提心を讃えている。ただ、浄瓶を蹴っ飛ばすなんて、もっと他に打つ手はなかったのかとも言ってそうな感じはありそうですね。(笑)これぞ八方睨みになりますか。

為山和尚は、お堂も建てず、ただ一人坐禅をしていた。それが八年ほども続いたがその後から広まった。なるほど、為山和尚でも八年かかったか。達磨さんの面壁九年と同じだ。入れ物より中身が大事だ。うちも塀や寺標が新しくなったが、それに伴う内容がないと、綺麗になっただけで終わる。こりゃ心得なければ、為山和尚に申し訳ない。

中身となると、これが難しい。しかし、心は自然と器に似て備わると言われる。だいぶ色はさめて来ましたが、立派な塀を見て、見た人の心が潤えば、その積み重ねで心豊かな人生がおくれると確信しています。本堂の屋根、塀、寺標の他に人の心へ影響を与えられるモノとはいったい何でしょうか。

 

無門関 第三十九 雲門話堕

第三十九 雲門話堕

雲門和尚にある僧が尋ねた。『光明寂照遍河沙』と言い終わらないうちに、雲門和尚は、確かその句は、張拙秀才の言葉じゃなかったか?と話しかけた。僧は、はいそうです。と答えた。雲門和尚は、話堕せり(そりゃ、落第だな)と言ったことが、題名になっていますね。

この後、死心和尚が「なんでこの僧は落第なのか」と私たちに問いかけています。まー誰でも思い付く事は、この僧、自分の言葉を使わずに、張拙秀才の言葉を引用しようとした所だろうと。

確かに、説明する時に引用を用いる事がいけない訳ではない。ただ、雲門和尚は、すかさずこの僧分かってないなと見抜いた。

禅という文字は簡単に示すと書かれています。(示す偏に単) それで一言二言で決まると言われています。話が長くなるのが分かったんですね。つまり、要点をつかんでないと判断された。

この無門関もなぜこんなに多くの問題が出ているのかと言えば、お悟りに迫る道のりにも色々ある事を示しています。ちょうど、山に登る登山道が三つや四つもあるように、どこから登っても頂上に着くように、切り口がそれだけある訳ですね。今回やっと三十九話になりました。今回、もし副題を付けるとしたら、「借り物はダメだ」と名づけられますかね。『光明寂照遍河沙』は、張拙秀才の言葉なので、自分の言葉で言わなきゃ、自分も救われない。人にも言えない。

さて、これだけの説明では、納得できないですね。それでは、この僧は、何と言えば、合格だったんでしょうか。まさか、この言葉は、張拙秀才の言葉じゃなかったか?と聞かれ、僧が、はいそうです。と言わず、いえ、私の言葉です、と言えば良かったなんて、思わないですよね。これは、修業時代にも老師からよく言われましたが、言葉だけいくら真似しても、あるいは、考えて言っても、何にもならない事をきつく言われます。要は、どう気が付いたか、そしてどのような境地か、を言わなくては、意味がない。

切り口は色々あるので、何でもよい。自分が考えていないとその時が来ない。ずっと考えていたことが、ひょんな事で分かる事は、皆さんも経験していると思います。考え続けることがなければ得られません。この僧、「張拙秀才の言葉じゃなかったか?」と聞かれた時、気が付くと良かったですね。何も気が付かなかったので、落第だ。その気付きがいつ来るかは、全く個人差に依ります。皆さんがこの僧ならどうしますか?当然、人の句は使わない事を学んだので、自分の言葉で勝負ですね。

無門関 第三十八 牛過窓櫺

第三十八 牛過窓櫺

この公案は、思い出深い修業時代の独参(師匠と弟子一人との問答)の折に師匠から頂いたものです。
水牛が窓櫺(牛小屋の窓)を、頭角四蹄(頭、角、手足、体)が、通っても尾が通れない。なんで大きな体が通っているのに、小さい尾っぽが通れないのか?というのが今日の問題になります。

これはとても厄介な問題で、どうしても通らなければならない。そこで、頭角四蹄は、何を指していて、尾っぽは何を指しているのだろうと考える。
牛というとお盆に飾る精霊牛を思い出します。キュウリは馬で、早く来てもらうために足の速い馬に見立てます。なすは、牛にそっくりになりますから牛に見立てます。そして、ゆっくり帰ってもらうため、牛にしたと言われています。また、お盆のお飾りをたくさん背中に乗せて帰るためとも言われています。

ここで思い出すのが牛に乗せる荷物ですね。お盆では、牛の背中に乗せる荷物は良い意味ですが、問答では、迷いを指すことが多くあります。
そこで先ほどの頭角四蹄は、何を指しているのか?なのですが、これは、荷物を背負ったままでもうまく通れば通れないことはなくすり抜けた事を指すことにしてみました。例えば、入学試験に危ないと言われてた人が合格してしまった、と言う事は、よくあることです。

それでは、シッポとは何を指しているか?お分かりですね、荷物を全て降ろしてしまった牛を指していますね。荷物がないので、ひん軽でどこでもスイスイ通り抜けている。というより、通るも通らないもない。これが、荷物がない牛の丸出し。牛とは、本来の自己を指します。

さて、答えが出るまでは、あれこれと考えますが、その時はそれが苦しいが、後からはそれが楽しみに変わりますね。まるで苦しみと楽しみは、親戚みたいな感じで。(笑)

人は、頭脳を持ったのでその脳を楽しませてあげると喜びもっと働いてくれます。苦しみがあると楽しみが倍増するのは、その落差を感じるからでしょう。
同じ様に、荷物(迷い)があって、それを降ろした時の快感は、何物にも代え難いものです。つまり、迷いと悟りは、切っても切れない関係にあるようです。

そうそう、法事の時に、「悟りとは何ですか?」というご質問を頂きました。「諸法無我を感じてそれになる事」としておきました。しかし、誰でも無我なんて嫌ですからね。我を張って楽しんだ方が良いと思うでしょ?ところが、実際は、そうならないんです。我があると楽しめなくなる飽和点がやって来る。(笑)

 

無門関 第三十七 庭前柏樹

第三十七 庭前柏樹

こちらのお話は、とても有名で、晋山式の公案にも出てくる時があります。
趙州和尚に僧が尋ねた。「如何なるか是れ祖師西来意」祖師とは、お釈迦様から代々受け継がれてきた方々、西とは、インドを指し、西から伝わって来た意味は、何ですかと尋ねたんですね。

要するに、佛法の大意とは何かと同じですね。西のインドから伝えたといえば、達磨大師のことですが、大師の心とは、何だったのでしょうか?
達磨さんで有名な言葉は、「無功徳」「不識」でしたね。武帝は、たくさんの仏塔を建てたりしたので達磨大師に尋ねた。「私は、どれだけの功徳があるか?」
「無功徳」と言われその意味が解からなかった。そしてもう一つ、「そう言う、あなたは、誰だ?」
「不識」知らないと応えられた。
達磨さんは、一所懸命に、答えられたが、武帝には、届かなかったという有名な話ですね。ここで言葉が意味する事や内容と受け取り方の違いで伝わらない事が分かりますね?

例えば、法事の後にうちでは、珈琲を入れることがありますが、その味を尋ねても、結局、その方の感覚と私との感覚が同じでなければ、いくら尋ねても正しい答えに行き着けない。不立文字、教外別伝 という句があります。簡単に言えば、文字を立てず、教え(文字に頼らず)の他(別)に心に伝える。今日は、こちらがテーマになるでしょう。

それで、趙州和尚は、何と答えたか気になるところですが、
題名になっているように「庭前の柏樹子」と。庭に植えてある柏の樹って何?という感じですね。それでいいと思います。これを柏の樹は何だ、前の庭は何だ。と考え出すと、迷いに入ります。が、入らないと分からないことが多いのも事実です。

ここが文字を立てない処になります。さて、それでは、何を指しているのか、気になりますね。宇宙と一体の自己とか本来の自己と言われる佛法を指しています。どうするとそれが分かるのかと言えば、坐禅をしたり、一所懸命に仕事したりして居ると、そのものと一つになる時節が来る。と、やっぱりそうかとなる。残念ながら死を逃れる事は出来ないし、生を願うこともできない、という宇宙と一体となる心。

ここでお分かりだと思いますが、言葉により憤慨したり、誤解したり、別の事になって伝わったりするのは、この心が会得・体得してないからとも言えそうですね。言葉によって判断するのでなく心ですると間違いが少なくなるのかもしれない。それ程、この心は大切なものとなります。言葉に騙されないように。(笑)

無門関 第三十六 路逢達道

第三十六 路逢達道

五祖の法演禅師が言われた。「路で逹道の人に出逢ったら、どうしたらよいのか」黙っていては勿体無い。そこで、どうしたらよいのか、と言うのが今日の問題になります。

達道とは、字の如く道に達している人、大悟徹底している方ですね。道の先生に何か尋ねないなんて勿体無いと言う事でしょう。ただ、何を聞いたらよいか分からない、どう尋ねてよいか見当がつかない。そこで、法演禅師が迫って来た訳です。「早く言え」

さて皆さん、なんって尋ねますか?人それぞれに質問が違うでしょうから、正解はありませんよ。でも、道逹にしてみれば、質問で分かってしまう。だから気を付けなくてはならない。それで余計に尋ねづらくなる。そして黙ってしまう。
そこで模範的な質問を今までの中から考えてみましょう。「佛とは何でしょう」
「悟りとは何か」「佛性とは何でしょうか」

これらは、ちょっと仰々しいですね。
「豊かな心とは」
「幸せとは、何」
こちらの方が一般的ですね。

先日、ある檀家さんが、私と境内で出会い挨拶の後、「お賽銭忘れたけれど、お位牌様をお参りしてきます」と。私は、直ぐに「そうしようとする心が大切ですね」と。直ぐにポスターを指差して「ここに書いてある『心豊かな人生』なんて難しいね」と。「いやいや」と。その後何も付け加えなかったが、その心掛けがある事が心を豊かにするのでしょう。

「幸せとはどんな状況でしょうか?」 先ずは、自分が幸せになる事が必要ですね。次は、人を幸せにする事が大切です。そうすると、皆が幸せになる。興宗禅師は次の様に言っています。「他の人の幸せを願う気持ちを幸せと言う」これはかなりハイレベルですが、最終的な目標となるでしょう。

諺に「人をそしるは鴨の味」というのがあります。鴨は美味ですから止めたくてもやまらない。しかし、これは、心豊かにするには大敵。自分が幸せになるにも障害となります。そうか、それでなれなかったのか、と気付けば、今日の問題は、半分クリアですね。もう半分は、人の幸せを願わなくてはなりません。これがなかなかできないので、難しいということになります。

さて、問題に戻って人と話す時には、どうしたらよいかということでした。実は無心で話せば良いだけなんです。何も企むことなく気遣うこともなく、相手と一つになることです。

相手と一つになったら自分だけが幸せだけでなく相手も幸せにしなければならんでくる訳です。自然発生的にそうなってくるんです。本当に自分が幸せならそうなります。

無門関 第三十五 倩女離魂

第三十五 倩女離魂

今日は、物語です。倩女という美しい女性が住んでいた。また、王宙という美少年も近くにいた。倩女の父は、戯れで大きくなったら、二人は、一緒になるだろう、と言った。

ところが、倩女の父は、気が変わって、相当な地位あるとろろへ嫁がせてしまった。それで、王宙は、家出してしまった。すると、後を追って倩女が来たので、一緒に隣の国へ逃げた。二人の子宝に恵まれ幸せに暮らしていたが、二人とも故郷が懐かしくなり、郷里に戻った。そして、王宙は、一足先に戻り、今までの事を話したら、倩女の父は、「君が家出した後、倩女は、病気でずっと寝込んでしまい、今も寝ている」と。

王宙は、「そんな事はない、倩女は、今船で待ってますよ」
使い者が見に行ったところ、本当だった。
船に居た倩女は、家に向かい、門まで来ると、寝ていた倩女も起き上がり、二人が重なって一人になった。
この話を元にして、法演禅師が、ある僧に尋ねた。「倩女離魂、那箇か是れ真底」と。

この話は、本当かどうか、と。
この話で直ぐに思い出すのが、マジックです。例えトリックだと分かっていても、実際、目の前から消えます。そこで問題です。あれは、嘘かホントか?
目の前から消えたのは、ホントで、実際は、トリック、と言ってみても納得いかない程、最近のものは、凄いですよね。それでどうなんだ、と言われても、答えられない。

無門和尚は、この真底を悟れば、生死は、旅行のようなものだ、と言ってます。旅館に着いて寝ることを死に例えれば、朝起きることが、生まれることになる。そして、いい処を見て回るのが、人生。人に依り見る所が違うのが人生、好きな食べ物が違うのも人生。そうすりゃ、趣味が違って当然、やりたい事も違う。どれが本当かどれが嘘かは、分からない。さて、皆さんの旅行の風景はどうだったでしょうか?ええ所を見てこられたでしょうか?若い方は、今までのところで考えて見て下さい。

幸せは、自分で感じることであって、人から認められるモノではありまん。旅の風景を幸せと感じられれば、安らかな眠りに着けます。何を持って幸せとするかも個々により様々です。昔に比べれば、豊富なモノに溢れています。モノをどれだけ持っても、際限がない。どこかでモノに頼らない自分を発見しなければ、本当の幸せは、来ないのでしょうね。幸せを感じたら、家族に、後世に何か残して行きましょう。いわゆる、旅のお土産ですね。上げること自体が心地よい、愉快、幸せ、ですね。貰った人も嬉しい、楽しい、感激ですね。

無門関 第三十四 智不是道

第三十四 智不是道

南泉普願禅師は、言った。『心は是れ佛にあらず。智は是れ道にあらず。』と。
今日は、これだけです。簡単でいいのですが、解説をいっぱい書かなくてはならない。例え話を多く入れることにしましょう。

さっそくですが、『絵に描いた餅』は、ご存知ですね。絵に描いてある餅は、食べられない。→ 役に立たない。

仏教や悟りについて解説しても、これと一緒で説明を理解しても役に立たないと言う事になります。その事を、『心は是れ佛にあらず。智は是れ道にあらず。』と言った訳ですね。心は、佛だ。智は、道だ。と言っても間違いではありませんが、『絵に描いた餅』になる可能性が大ですね。そこで、わざわざ、否定的に表現をしたんでしょう。

固定概念を打ち破る効果を狙っていますね。

思い込みを白紙にすると新しい世界が創造できる訳ですね。『幸せな人生』と言っても個人で観念の差が出たりして一定しないですね。それはそれでいいのですが、ここでは、観念ではなく真実の世界に迫ることを目指してます。観念ではない世界=真実の世界と言っても良いかもしれません。それでどうなるのかというと、本来の自分と出会えて、諸行無常、諸法無我を悟ることができます。そうするとどうなるのかといえば、悩みが少なくなり、とても生きやすくなります。

これを私は、『こころ豊かな人生』としました。例え、モノがなくても心は、豊かでありたいと願う気持ちですね。昭和の時代ですね。今に比べてモノがないのは、当たり前でしたので、何も気にせずに、それなりに楽しく過ごしていたと思います。もちろん、あの頃は、これから良くなる高揚感がありました。

でも、これからは、停滞か下降を意識しての毎日は、ある意味辛いところがあるでしょうね。だからこそ、これからは、余計に、心豊かな生活が求められていくでしょうね。これから、本格的に、仏法や禅が役に立つ時代になるかと思っています。
私達は、心が描くものに支配されてしまいます。これからの時代は、何を描こうとするのか分かりませんが、絵にかいた餅にならないよう気を付けたいという指針を示してくれました。

無門和尚は、『天晴れて日頭出で、雨下って地上湿う』と詠っています。人の心が介入できない天地の営みを読み上げているのでしょう。所詮私たち人類でさえ、天地の一部なのです。同じ存在になる訳です。間違っても、人類が天地をコントロールしている事なんて有り得ないですね。地震や津波には十分注意しましょう。天地を恐れないと飲まれます。