無門関 第二四 離却語言

風穴和尚にある僧が尋ねた。「語黙は離微に渉る、いかんが不犯を通ぜん」まず、字の意味が難しすぎますよね。離とは、主観で、微は、客観だそうです。

と言うことは、「主客一如」を尋ねた訳ですね。普通一般的に、主観と客観は、相容れない対立の世界と考えがちです。禅では、同じものと捉えます。そこで、この僧が、尋ねたのです。どうしたら、主客の対立に落ないで通ることができますか?

この事は、普段よくある自分と人、人と人の意見の対立について考えてみてもお分かりのように、常に日常的に存在しています。

風穴和尚は、次のように答えました。「長えに憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く処、百花香ばし」

随分前に、三月の終わりの江南で、鷓鴣が静かに啼いていて、百花らんまんに咲き乱れ、良い香りがしてたな。

うむ、風穴和尚、トボけたのかな。(笑)
意見の対立は、どこでもありがちですが、このように言われれば、対立のしようがない。

無門和尚は、風穴和尚は、手ぬるいと言って私たちに喚起を促しています。
「しばらく語言三昧を離却して、一句を道いもち来たれ」と。語言三昧とは、ああでもないこうでもないという事で、それを離却して一句言ってみろと、質問が出されたのです。これが、今日の題名になっています。

たとえ意見の対立があっても「主客一如」ですから、主が客をあるいは客が主を恨んだり、嫉妬したり、うらやましく思ったりしない訳ですね。ところがこれが難しい。その証拠が「主客一如」になってないからです。主客が、独立してないし、主が主になっていなく、客が客になっていない。つまり、自分が自分になっていない事になります。

自分が自分になっていれば、人をうらやむ事はないでしょう。
人をうらやむとは、どうゆう事かといえば、自分に自信がないとか、自分に満足してないとか、自分側に不足した所があることを示しています。人は、自分を写す鏡と言われますね。また、人と比べる事からの幸せや満足も怪しくなります。

本題からそれてしまいましたが、「語言三昧を離却しての一句」には、人と比べて嫉妬したりしないそのままの自分に満足した自分が最低条件として必要だという事になりそうです。意見の相違には、利害関係が絡む事が多いので、単純ではないのですが基本的に「主客一如」と言う事を心に留めておきたいですね。宮本武蔵は、畑を耕している老人のクワからの殺気で飛び跳ねたけれど、尋ねてみたら、自分の殺気がクワに跳ね返って居たと知らされた。