無門関 第二五 三座説法

仰山和尚は、夢を見て弥勒菩薩の道場へ行き、第三座を仰せつかる。そして「今日第三座の説法に当たる」と言われ、説法することになった。ここから本日の題名となっています。

「摩訶衍の法は、四句を離れ、百非を絶す」と説法された。これだけで終わりなので、私もこの後、何を書こうか途方に暮れています。

四句とか百非とは、普通の仏教解説を指して言ってます。ここで解説していることももちろん含まれます。そういうものを「絶す」と言う事が今日のテーマになります。「絶す」と言う事は、そのままと言い換えられそうですね。すると、先月の話題と同じになりますが、この様にして、入口、切り口は違っても、結果は同じ処へ集める、集まる、これが問答集や語録の特色となっています。

すると、もうそろそろ皆さんの中にもその結果に気がつかれた方も見えるかもしれませんね。あるお彼岸会の法話の時、何を訊ねたのか忘れましたが、法話を聞いていた檀家さんの中で、私の質問にズバリ答えた方が見えました。あの時は、耳を疑いました。また、とても素晴らしい事だと感心しました。そういう時が来るのですね。感が鋭いのかな。

さて、「絶す」と言うのは、関わらないことなので、例えて言えば、ああでもない、こうでもないという愚痴や悪口、人の噂、評判、など、それを聞いてもそれに関わらないか、聞いても気にしないか、と言う事になりそうですね。そんな事ができるのでしょうか。

そうすると不安になりますが、実は皆さん自然にできているんです。こちらの方が理解に苦しむでしょうね。と、言われても何の事か分からないし、そんなハズはないと考えてしまう。ここが、最大のポイントとなりそうです。
白隠禅師坐禅和讃には、次の様にあります。
衆生本来佛なり
水と氷の如くにして
水を離れて氷なく
衆生の他に佛なし

しかしこれが、あでもない、こうでもないになるので、分かった様な分からない様な感じになりますね。

そこで、仰山和尚は、一言で決めてきました。「絶す」です。
もう一つのキーワードは、夢です。名だたる武将の辞世の句には、夢が多いように、人生は夢を見ているようにはかなく短い。アッという間の出来事であった。何をしたからといってどうと言う事でもない、という感じでしょうか。

ここでの夢は、仰山和尚が、夢で弥勒菩薩に逢っている訳ですが、仏法では、ありとあらゆるものを「夢」と表現する事があります。つまり、お悟りの符牒として用いられます。我が人生夢の如し。