無門関 第二九 非風非幡

こちらはとても有名なお話です。インドから中国へお釈迦様の仏法を伝えた達磨大師から数えて六代目の慧能禅師のお話です。前にも出てきましたが、師匠からわずかに参禅しただけで菩薩大戒の血脈を受けたので、長く修行していても貰えていない修行僧から妬まれ、追われてしまいましたね。

それで、法難といいますが、それを避けるため身分を隠して隠遁生活をしていた訳です。およそ十年と言われていますが、ようやく法を説く時節が到来したと見て、世の中に出てきた最初のお話らしいのです。

二人の僧が、「風が動くのか、幡が動くのか」と問答をしていて、一人の僧は、「風が動く」もう一人は、「幡が動く」と言い合っていたところへ、六祖慧能禅師が割り込んできて、「風が動くのでもなく、幡が動くのでもない、どちらも人の心が動くのだぁ」と言った有名な話です。

なるほど、上手いこと言ったなぁ〜と言う印象ですが、何か上手くあしらわれた感じが残りますよね。これは、先ず二人の僧の関心を集めないと、最初から難しいことを言っても見向きもしない恐れありと考えたのか、どうなのか分かりませんが、その方が話の流れとしては、とてもいい訳ですね。法難の後だから柔らかく出てきたのでしょうか?

とにかく、二人の僧は、ひどく関心をしたので、どなただという事になり六祖さんだったので、驚いたことでしょう。お話は、ここで終わっていますが、無門和尚の提唱には、「これ風動くにあらず、これ幡動くにあらず、これ心動くにあらず」と来ました。

この違いが分かれば、上級コースですね。無門和尚は六祖禅師の言葉を否定してきました。さて、修行者は、混乱することでしょう。ここが、今日のお話のクライマックスです。六祖様は当然ながらお釈迦様からの直系です。無門和尚は、残念ながらそうではありませんが、目は一流ですね。そこが狙い目です。そこの謎を答えないと今日の問答は終わらない事になります。

この風と幡(はた)は、何を指しているのか。風とは、動かすもの、幡とは、動かされるものを表現しているとすれば、風は、環境を指していて、それによって動かされる幡は私たちを現している事になりますね。環境が悪いのか、それとも人が悪いのか、と言う問題にも発展することができます。

よく事件などがあると、あの環境じゃ仕方ない的な意見が出ますが、やはり、両者は密接に関係がありますから、どちらか一方という事ではないことがこの問答でよく分かると思います。環境も良くしなければならないのですが、私たち人間も良くならないと、世の中は成長しないんですね。両方なんです。