無門関 第三十三 非心非佛

馬祖道一禅師にある僧が問うた。『如何なるか是れ佛』禅師は、『非心非佛』と。

今日は、簡単です、これだけですから。説明をしなくて良いのだけど、この後のスペースを埋めなくてはならない。その方が難しい。

第三十即心即佛も馬祖道一禅師でした。そして、問も同じく『如何なるか是れ佛』でした。答え方が違うようですが、同じことを言っていることは、お分かりでしょう。どちらも佛を指し示しています。それでは、なぜ言葉が違っているのか?

例えば、東京へ行く行き方を尋ねられたら、新幹線、高速バス、車などいろいろある。また、車の場合、道は無数にある。途中はいろいろ有っても結果的に東京(佛)に着けばいい。それで、その人に合った方法を教えて上げればいい。馬祖禅師は、それをしていると言えます。

では、非心非佛と即心即佛は、どう違うのか。字から分かるように非佛は、佛に非ずで否定的、一方、即佛では、即ち佛だから肯定的という点が浮かび上がりますね。ではどう使い分けるのかと言えば、肯定的な人には、非心非佛といい、否定的な人には、即心即佛を使ったと思われます。だだ、その逆もありでしょうね。

この世の中は、相反することが同時に起こります。
諺に『肝は大きく心は小さく持て』というのがあります。これは、反対の事を言っていますが、分かりますか?大胆で細心の注意を払うなんて、無理だよ、という声が聞こえそうですが、どうしてでしょう。一方を取れば、他方を捨てると感じてしまうからでしょう。この場合、同時に両方を取り上げています。いわゆる、矛盾と言われる部分ですね。

それで、非心非佛と即心即佛は、矛盾のようでありながら同時に同じこと(佛)を表しています。

例えば、日本から見る月とアメリカから見る月は、見え方は違っても、同じ月に変わりはありませんね。それを、日本から見える月がホントで、アメリカから見える月は間違いだ、と言うのは、間違いな事がわかりますね。このように、この世の中、こんな感じで間違ってしまいます。『月に違いがない』事に気が付かなくてはなりません。アメリカでの人種差別の問題、宗教的紛争の問題は、この方程式にかけると、同じとなり、問題がなくなりますね?

日本人は、クリスマスを祝い(キリスト教)、除夜の鐘をつき(仏教)、初詣をする(神道)。これは、優柔不断ではなく、寛容の心を表しています。つまり、共存です。違ったもの同士がお互いを認めて、共に生活をすることができることに気がつかない。

無門関 第三十二 外道問佛

外道の人が仏様に質問をしました。外道というのは、仏教以外の教えを学んでいる人です。仏教以外と言っても、ブッダ・お釈迦様が現れるまでは、そうだったインドでは、かなり近い精神世界が流行っていたと思われます。

そこで、外道の人は、なんと質問したのかといえば、「有言を問わず、無言を問わず」と。これは、あるといっても当たらないし、無といっても当たらない。有無超越といっても当たらない。とうとう行き詰まってお釈迦様に質問に来た。

すると、お釈迦様は、何と答えたか、一番気になるところですね。それが何も答えずに座ったままでした。普通では、何も答えてくれなかったと思ってしまうでしょうが、その外道の人は、なんと「世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我をして得入せしむ」と、賛歎して言ったのです。迷いの雲を開いて道に導いてくれたと言うのです。つまり、悟ってしまった。あらまー、仏教を学んでなくて、たった一度、世尊(お釈迦様)にお尋ねしただけで、悟ってしまった。側に居た阿難様が、困ってしまう。案の定、阿難様は、世尊に尋ねた。どうしてあんなに賛歎して帰って行ってしまったのですかと。あらー、阿難様気がついてない。お釈迦様の後を継がれた方ですが、この時は、まだ分からなかった。あちゃー。こんな事があるんですね。そうなんです、人に依り、悟るときは、バラバラです。この場合、阿難様の立場が、ないですけれど、仕方がないです、これだけは。

そして、ここに関しても付録が付いています。こんなに早く気がついてしまったことを、世尊は、「良馬の鞭影を見て行くが如し」と評しました。賢い馬は、鞭の影を見ただけでムチ打たれないうちに、動き出すと。これは、世の中の成り立ちや仕組みのように、優、良、可、不可と別れてしまうものだ。生まれながらその星に居る事を受け止める時が来るものなんだと。

大卒の就職難は、なぜ起こってしまったのか?これこそ、この世の自然の成り立ちに背いたからなのかもしれませんね。みんなが、優や良(大学へ行くこと)になることは、難しいし、そうなってしまったら、世の中が回っていかなくなるから、他の道を探そうと考えなくては、
優や良の人で溢れてしまうことを察知しなければいけなかった訳ですね。(私は、できませんでしたが笑)経済の理論ですね、同じ物が沢山あれば、その一つは、安くなる。

またメインの方で言えば、自分がなぜ生まれたのか、なぜ死ぬのか、分からないし、説明できない。そもそも、この世の中は、説明不可能な世界なのです。

無門関 第三十一 趙州勘婆

こちらも有名なお話です。五台山と呼ばれる文殊菩薩の霊場へ行く途中に茶屋がありそこのお婆さんが、少々悟りの目を持っていたから、文殊様に参拝する僧に道を聞かれると、いつも『幕直去』と言われ、真っ直ぐ行きなさいと教えていた。ところが、意地悪な婆さんなのか、その後、『お人好しなお坊さんだこと、そのまま行きなさる』と言って、からかっていたらしい。自分で言っておきながら、その通りすると、ケチを付ける。全く困った婆さんだ。

この僧は、趙州和尚の門下だったらしく趙州和尚に質問をしたらしい。そこで趙州和尚自ら婆さんを訪ねてみることになった。訪ねてみて同じように五台山へ行く道を訪ねたら、婆さんは、いつもと同じように答えた。趙州和尚は、『婆さんの腹の底まで見てきたぞ』と皆に言った。さて、和尚は、婆さんをどのように勘破したのだろう、と言うのも公案になっているようだ。

さて、何に例えたら分かりやすいか、ここで考えてもう三時間が経ちました。今日は、頭が回らないので、駐車場に置いてある車止めを、一つ作って来ました。それでも思い当たらない、困ったな・・・
仕方なく、次の例え話しで行こうと思います。最近、凶悪な事件、残忍な事件が多いような気がします。この原因をずっと考えてました。ようやく、私なりの納得を特定してみました。一つは、愛情不足で育った家庭環境、もう一つは、遺伝的な要因としてみました。

私達は、人間である前に動物ですよね。愛情豊かな人に育てられると、ようやく人に生まれ変わっていきます。もしそこで愛情が薄かったり、愛情が足らないのに、暴力ばかりになってしまった場合、虐待になってしまうでしょう。この場合、人になるための条件が不足していると思われます。もしその状態を動物に近いとしたなら、人としてのバランスを崩していると考えます。つまり、私達は、動物の本能と愛情豊かな人としての素養を兼ね備えてこそ、人間たらしめているのではないでしょうか。どちらが欠けても、問題になります。動物の本能が足らないと、スポーツ、車の運転、労働作業、結婚、子育てなど困ることが出てくるかもしれません。

さて、茶屋の婆さんの最初の言葉、『真っ直ぐ行きなさい』を素直な感覚と捉えて見ると、人として必要な感覚に思えます。また、『お人好しなお坊さんだこと』と意地悪を言っていると捉えると、動物的とも言える。婆さん、ちゃんと、両方言って、バランスを整えてきた。どちらかに偏っては不味い事を示した。かなり無理やりの感じでまとめました。笑

無門関 第三十 即心即佛

馬祖道一禅師に、大梅和尚が質問をしました。「如何なるか是れ佛」禅師は、「即心是佛」と応えられた。題名は、即心即佛となっていますが、同じ意味です。「衆生本来佛なり」という言葉は、既に出てきましたが、もう一度復習です。「私達は、既に仏様です」と言われても、納得がいかないですね。なぜでしょうか?それは、悩みが多く不平不満が耐えないからでしょうか。

それとも、佛様とは、人類を超越した存在で決してなれないもの、あるいは、亡くなった人の事を意味する言葉と勘違いしてないでしょうか。良い例えではないと思うのですが、例えば、十円玉がありますね。裏でも十円、表でも十円です。このように、例えば、私たちの表を人間、裏を佛としたら、分かりやすいでしょうか?変な言い方ですけれど、例えば裏が出た時は、私たちも、仏様です。それが、いつも出るようになれば、仏様です。ここまではいいですか。 では、次ですが、当然、裏の時とは、どんな時ですか? となりますね。

そこで、禅師は、「即心是佛」と言われました。その時、大梅和尚は、自身が表も裏も佛になっている事にはっと気が付いたのです。

「即心」とは、心身一如ですから、身も心も直ちに、ということでしょう。ある意味で、表も裏もという事になりそうです。つまり、全てという事です。

修行僧であっても、佛と言われると、何か特別のモノを思い描いてしまうものです。そう言う妄想をやめて、神通力も捨てて、コツコツと励んでいると、ここの大梅和尚のようになるかもしれません。それを悟りと言っています。だから、何も特別な事はないのです。有ったら逆に怪しいかもしれませんね。そういうものなので、誰でも仏様になれるのです。

仏様になってどうするのか? という疑問が出てくるのですが、どうもしません。なったらなっただけで終わりです。ただ、迷っている方に自分の経験を話せる、導くことができる、だけです。やはり特別なことは、ないのです。ただ、悩みが減り(完全には無くならない)自分は、身軽になり余裕ができ、人のために働けるようになる、だけです。そのほか何もありません。

今回、私は、皆さんが佛様だと思った瞬間は、塀の寄付を持って来て下さった時です。(そりゃそうだなって言わないで下さい、笑)あるいは、振込で、あるいは、積立で、あるいは、二口で、頂きました。驚く他ありません。この行いが佛行でないはずがありません。それも、布施行(寄付をすること)と言うのは、一番難しい佛行とも言われています。確かに佛様でした。

 

無門関 第二九 非風非幡

こちらはとても有名なお話です。インドから中国へお釈迦様の仏法を伝えた達磨大師から数えて六代目の慧能禅師のお話です。前にも出てきましたが、師匠からわずかに参禅しただけで菩薩大戒の血脈を受けたので、長く修行していても貰えていない修行僧から妬まれ、追われてしまいましたね。

それで、法難といいますが、それを避けるため身分を隠して隠遁生活をしていた訳です。およそ十年と言われていますが、ようやく法を説く時節が到来したと見て、世の中に出てきた最初のお話らしいのです。

二人の僧が、「風が動くのか、幡が動くのか」と問答をしていて、一人の僧は、「風が動く」もう一人は、「幡が動く」と言い合っていたところへ、六祖慧能禅師が割り込んできて、「風が動くのでもなく、幡が動くのでもない、どちらも人の心が動くのだぁ」と言った有名な話です。

なるほど、上手いこと言ったなぁ〜と言う印象ですが、何か上手くあしらわれた感じが残りますよね。これは、先ず二人の僧の関心を集めないと、最初から難しいことを言っても見向きもしない恐れありと考えたのか、どうなのか分かりませんが、その方が話の流れとしては、とてもいい訳ですね。法難の後だから柔らかく出てきたのでしょうか?

とにかく、二人の僧は、ひどく関心をしたので、どなただという事になり六祖さんだったので、驚いたことでしょう。お話は、ここで終わっていますが、無門和尚の提唱には、「これ風動くにあらず、これ幡動くにあらず、これ心動くにあらず」と来ました。

この違いが分かれば、上級コースですね。無門和尚は六祖禅師の言葉を否定してきました。さて、修行者は、混乱することでしょう。ここが、今日のお話のクライマックスです。六祖様は当然ながらお釈迦様からの直系です。無門和尚は、残念ながらそうではありませんが、目は一流ですね。そこが狙い目です。そこの謎を答えないと今日の問答は終わらない事になります。

この風と幡(はた)は、何を指しているのか。風とは、動かすもの、幡とは、動かされるものを表現しているとすれば、風は、環境を指していて、それによって動かされる幡は私たちを現している事になりますね。環境が悪いのか、それとも人が悪いのか、と言う問題にも発展することができます。

よく事件などがあると、あの環境じゃ仕方ない的な意見が出ますが、やはり、両者は密接に関係がありますから、どちらか一方という事ではないことがこの問答でよく分かると思います。環境も良くしなければならないのですが、私たち人間も良くならないと、世の中は成長しないんですね。両方なんです。

 

無門関 第二八 久響竜潭

今日のストーリーは、長いのでちょっと複雑になりそうです。先ずは、題名に出ている竜潭和尚の所へやってきた徳山和尚のお話です。

竜潭和尚の所へ行く前の有名な話がありますので、それを先に紹介します。

徳山は、金剛経の大家で、意気揚々と竜潭和尚の所へ行く前に茶屋にさしかかった。そこで、お腹がすいてたので点心を買うことにした。

その店のお婆さんが悟りの目を備えていたようだ。徳山を見るなり質問した。

「その荷車に積まれているのは何ですか」徳山は、「金剛経の注釈本です」お婆さんは、さらに質問をした。「金剛経の中に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とありますが、今、餅を食べたいといったのは、どの心が言ったのでしょうか?」

いゃ、これは、この婆さん、凄い、金剛経の大家の徳山は、ぐうの音も出なかった。そこで、徳山は、尋ねた。「この近くに禅の師匠は居られますか」と。そして、婆さんに教えられたのが、題名の竜潭和尚という事です。

徳山は、竜潭和尚からご指導を受けていたが、夜が更けてきたので控え室に行って眠るようにと指示された。真っ暗なので、竜潭和尚は、徳山に蝋燭を出して上げた。それを徳山が受け取ろうとした時に、竜潭和尚がその火を吹き消した、という有名なお話です。真っ暗になったその瞬間に、徳山和尚は、忽然として大悟した。

翌日、竜潭和尚から褒められた徳山和尚は、持って来た金剛経の注釈本を全部燃やしてしまった。それまで、大切にしていたものを、もう要らないと捨ててしまった。

さて、今日は、話が込み入っているようだけれど、茶屋の婆さんの話も竜潭和尚の話も共通しているといえる。この話から、ピンと来た人は、お悟りの目を備えているかもしれませんよ。(笑)

今日の例え話を色々と探してみたが、とんと思いつかない。それよりも、連日報道されている女子高生の凶悪事件。「人の体を解体してみたかった」が気になって思考が働かない。愛情が不足して育つとこの様な子供が育つ恐れがあることは、統計的に推測されつつあるようだが、その先の決め手がまだ分からない。母親が亡くなり、父親が再婚では、心を通わせるところが身近にない。事件は、自分の悩みの最大の具現化かもしれない。親身になって心の悩みを聞いてくれる人がこの世に一人居れば、その人は、救われると言われる。仏法は、人の悩みを解決するのに最高の処方箋だけれど、難しすぎるのが難点。蝋燭の炎が消えて何が感じられたのか?徳山の悩みは見事解決した。

 

無門関 第二七 不是心佛

南泉和尚にある僧が質問をした。『人のために説かざる底の法有りや』と尋ねた。南泉和尚は、『有り』と応えた。するとどうしても聞きたくなりますね。それは何かと問うと『不是心、不是佛、不是物』と和尚は応えた。これが今日の題名です。

『人のために説かざる底の法有りや』この質問の解釈は、いろいろな意味に取れます。「誰にも説かない佛法がありますか?」とか、「誰にも説くことのできない佛法がありますか?」も考えられますが、どちらでも同じなのですが、最初の方でいいと思います。その答えがあるというのですが、元々佛法は、説けないものなので、和尚さん正解ですね。(笑)

逆に言えば、これで法を説いたことになります。それだけでは一般的に分からないので、具体的に尋ねたんです。すると南泉和尚は、「是れ心にあらず、是れ佛にあらず、是れ物にあらず」と来ました。やっぱり、説けないよ。と言っている訳ですね。今日の南泉和尚のテーマはこれなんです。だからまた質問したとしても同じように答えるだろうと考えられます。

3・11といえばお分かりですね。未曾有の大震災+放射能は、私たちに何を突き付けたかといえば、「この地球を人類が支配しているかのように思っているようだが、自然の力はこうだよ」と。それに対して人類は、何もできなかった。つまり、それが証明された。そこで人類は、目が覚めるはずだった。右往左往して何もできなかった。

昔より、カリスマ的に支配が続くと東西を問わず神に近づくと思ってしまうようだ。信長、秀吉、家康もそうだったようだ。東照宮は、その現れ。地震の予知は不可能だそうだ。人類は、一度も自然を支配したことはない。できないからだ。その辺りが曖昧なうちに酔いしれたのかな?とにかく、あの地震で人類は目を覚ますはずだった。この自然は、説明がつかない事ばかりだ。

というような感じで、南泉和尚は、「是れ心にあらず、是れ佛にあらず、是れ物にあらず」と言ったかもしれない。とにかく説明が付かないのです。それでは納得しないから、ああでもないこうでもないと言い訳を付けるのが、この説明になります。つまり、余分な事を言っているわけです。でもそうしないと、ここに字が埋まらないし、便りが発行できないから。(笑)

まとめてみますと、佛とは何かと問われても本来は、説明できないもの。それを言ってみると「是れ心にあらず、是れ佛にあらず、是れ物にあらず」とも言えそうです。「自分はなぜ生まれてきたのか」正確には答えられない。あっ、それは ×

 

無門関 第二六 二僧巻簾

清涼院の大法眼文益禅師の方丈に、昼の食事前に二人の僧が参上し拝問していた。そこで、法眼禅師は、何も言わず簾を指差した。すると、二人の僧は、ピンと来て簾を巻き始めた。この事が、今日の題名になっています。

そして、法眼和尚は言われた、「一得一失」。なんのこっちゃ?

一つは、得を得ているが、一つは、失っている。あるいは、一人は、上手だが、一人は、下手だ。えっ、そんな事があるの?簾を巻くだけで、上手い、下手が、現れるものなのでしょうか?そういうこともあるでしょうが、ここでは、むしろそこに視点を置くことへの注意を喚起していると捉えなければ、ならないでしょう。得か損かは、日頃から私たちの判断基準なのは、間違いないでしょうけれど、ここではそこに疑問を投げかけています。

「表裏一体」という言葉があります。これは何んにでも使えて便利な言葉ですが、意味は、とても重くなります。ここで当てはめてみますと、得を得たと思っても、同時に失も得ているし、失を得たと思っても同時に得になる因縁も得ている。つまり、得と失は、一体で離れられない。これが自然界の道理ということです。得した時には、得が表面で失が裏になっているので、私たちの目には、得しか見えませんが、実は、失が隠れているのです。とくに経済界では、これが常識とさえ言われることがあります。バブルが弾ける前の好景気があれば、当然今の低迷期が来ると。ところが、それをコントロールするのは、至難の技となります。そうなんです、目に見える得を得ても、隠れている失のことを考えながら、コントロールする必要があった訳ですね。ところが、その時には、そんな事を考えている余裕などない程、一所懸命ですから・・・

もう一つ上げれば、「禍福は、糾える縄の如し」で、禍とか福は、まるで縄のように代るがわるやって来るものだ。とか、
「楽は苦の種、苦は楽の種」は、正しく今日の問題で、表ばかりでなく裏を見よ、そして、そんな事に囚われるな、と言う響きも感じられますね。

最後に上げるのは、「人間万事、塞翁が馬」ですね。ご存知だと思いますが、ある日、塞翁の馬が逃げた。そのうち、逃げた馬が駿馬を連れてきた。翁の息子が喜んで乗り回していたら、馬から落ちて、足を折った。そのうち戦争が始まり、近所の若者は、戦争に行った。翁の息子は、足が悪くて兵役を免れた。というお話です。不幸が幸の種となり、幸が不幸の種となっていますね。本当にこの様な事は、日常茶飯事に起こっています。視点を変えてみましょう。

 

無門関 第二五 三座説法

仰山和尚は、夢を見て弥勒菩薩の道場へ行き、第三座を仰せつかる。そして「今日第三座の説法に当たる」と言われ、説法することになった。ここから本日の題名となっています。

「摩訶衍の法は、四句を離れ、百非を絶す」と説法された。これだけで終わりなので、私もこの後、何を書こうか途方に暮れています。

四句とか百非とは、普通の仏教解説を指して言ってます。ここで解説していることももちろん含まれます。そういうものを「絶す」と言う事が今日のテーマになります。「絶す」と言う事は、そのままと言い換えられそうですね。すると、先月の話題と同じになりますが、この様にして、入口、切り口は違っても、結果は同じ処へ集める、集まる、これが問答集や語録の特色となっています。

すると、もうそろそろ皆さんの中にもその結果に気がつかれた方も見えるかもしれませんね。あるお彼岸会の法話の時、何を訊ねたのか忘れましたが、法話を聞いていた檀家さんの中で、私の質問にズバリ答えた方が見えました。あの時は、耳を疑いました。また、とても素晴らしい事だと感心しました。そういう時が来るのですね。感が鋭いのかな。

さて、「絶す」と言うのは、関わらないことなので、例えて言えば、ああでもない、こうでもないという愚痴や悪口、人の噂、評判、など、それを聞いてもそれに関わらないか、聞いても気にしないか、と言う事になりそうですね。そんな事ができるのでしょうか。

そうすると不安になりますが、実は皆さん自然にできているんです。こちらの方が理解に苦しむでしょうね。と、言われても何の事か分からないし、そんなハズはないと考えてしまう。ここが、最大のポイントとなりそうです。
白隠禅師坐禅和讃には、次の様にあります。
衆生本来佛なり
水と氷の如くにして
水を離れて氷なく
衆生の他に佛なし

しかしこれが、あでもない、こうでもないになるので、分かった様な分からない様な感じになりますね。

そこで、仰山和尚は、一言で決めてきました。「絶す」です。
もう一つのキーワードは、夢です。名だたる武将の辞世の句には、夢が多いように、人生は夢を見ているようにはかなく短い。アッという間の出来事であった。何をしたからといってどうと言う事でもない、という感じでしょうか。

ここでの夢は、仰山和尚が、夢で弥勒菩薩に逢っている訳ですが、仏法では、ありとあらゆるものを「夢」と表現する事があります。つまり、お悟りの符牒として用いられます。我が人生夢の如し。

 

無門関 第二四 離却語言

風穴和尚にある僧が尋ねた。「語黙は離微に渉る、いかんが不犯を通ぜん」まず、字の意味が難しすぎますよね。離とは、主観で、微は、客観だそうです。

と言うことは、「主客一如」を尋ねた訳ですね。普通一般的に、主観と客観は、相容れない対立の世界と考えがちです。禅では、同じものと捉えます。そこで、この僧が、尋ねたのです。どうしたら、主客の対立に落ないで通ることができますか?

この事は、普段よくある自分と人、人と人の意見の対立について考えてみてもお分かりのように、常に日常的に存在しています。

風穴和尚は、次のように答えました。「長えに憶う江南三月の裏、鷓鴣啼く処、百花香ばし」

随分前に、三月の終わりの江南で、鷓鴣が静かに啼いていて、百花らんまんに咲き乱れ、良い香りがしてたな。

うむ、風穴和尚、トボけたのかな。(笑)
意見の対立は、どこでもありがちですが、このように言われれば、対立のしようがない。

無門和尚は、風穴和尚は、手ぬるいと言って私たちに喚起を促しています。
「しばらく語言三昧を離却して、一句を道いもち来たれ」と。語言三昧とは、ああでもないこうでもないという事で、それを離却して一句言ってみろと、質問が出されたのです。これが、今日の題名になっています。

たとえ意見の対立があっても「主客一如」ですから、主が客をあるいは客が主を恨んだり、嫉妬したり、うらやましく思ったりしない訳ですね。ところがこれが難しい。その証拠が「主客一如」になってないからです。主客が、独立してないし、主が主になっていなく、客が客になっていない。つまり、自分が自分になっていない事になります。

自分が自分になっていれば、人をうらやむ事はないでしょう。
人をうらやむとは、どうゆう事かといえば、自分に自信がないとか、自分に満足してないとか、自分側に不足した所があることを示しています。人は、自分を写す鏡と言われますね。また、人と比べる事からの幸せや満足も怪しくなります。

本題からそれてしまいましたが、「語言三昧を離却しての一句」には、人と比べて嫉妬したりしないそのままの自分に満足した自分が最低条件として必要だという事になりそうです。意見の相違には、利害関係が絡む事が多いので、単純ではないのですが基本的に「主客一如」と言う事を心に留めておきたいですね。宮本武蔵は、畑を耕している老人のクワからの殺気で飛び跳ねたけれど、尋ねてみたら、自分の殺気がクワに跳ね返って居たと知らされた。