禅語を味わう・連載

禅語を味わう・Facebook 連載

◎ 禅語を味わう 17 「 即心即仏 」 (そくしんそくぶつ)

 心が即ち仏である・・・さて、この心が問題なのはお分かりの通りですね。自我の心では、問題ばかり出て来てしまい、とても仏とは言えないのは、自明の事です。

 悩み、不安、争いは、自我を認めるところから発生しています。これらを無くすには、自我にこだわらない空相に依ります。

 馬祖禅師は、「 即心即仏 」が流行り過ぎてしまい、新鮮みが薄れた事を思い、「非心非仏」と説いたと言われています。

 心に非ず、仏に非ず、さて、こちらは、どうなりますか・・・まだ、「 即心即仏 」に慣れていないのに、出してしまう事が早すぎると、思われるかもしれませんが、誤解をしない様にの布石ですね。

◎ 禅語を味わう 16 「 和光同塵 」 (わこうどうじん)

 光を和らげて塵に同ず・・・元々は、「老子」に出ているようです。光があると輝かしくていいんですが、まぶし過ぎますよね。だから、ちょっと光をさえぎる様なものを身につける。

 この場合には、塵で光が出ない様にしている。というか、もう塵に成り切ってしまっている。光を忘れてしまっている感じですね。

 「和泥合水」 (わでいがっすい)  と似ていますね。( わが身を顧みずに、全力で他人を救うこと )泥と相まみれ、水に入って・・・そんなマネ出来ませんな・・・笑

◎ 禅語を味わう 15 「 拈華微笑 」 (ねんげみしょう)

 釈尊(お釈迦様)がある日、説法の折りに、大衆にすっーーと、金波羅華 (こんぱらげ) という花を差し出した(拈華)。大衆(皆さん)は、訳が分からずに無言で黙っていたが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけは、にこっとされた(微笑)。

 さーて、摩訶迦葉は、何を感じたんでしょうか ? こちらが今日の問題になります。答えは、今までに申し上げましたので、今日は、皆さん考えてみて下さい。(微笑)

 こちらを表した有名な文言はこちらになります。
「吾れに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。
不立文字、教外別伝なり、摩訶迦葉に付嘱す」
釈尊(お釈迦様)から摩訶迦葉に法が伝えられ、迦葉は第二祖となった。

◎ 禅語を味わう 14 「 放下着 」 (ほうげじゃく)

 方丈、書院、茶室などに掛けられている、一行書、一行物、掛け軸、茶掛けなどによく使われますね。

 放下しなさい、とは何を放下する(捨てる)のか。 趙州和尚のところへ、かなり境涯が出来た僧がやって来て、こう言いました。「迷いはもちろん悟りも捨てて、無一物です。この後、どの様に修行すればよいのですか?」そこで、趙州和尚が言った言葉が、「 放下着 」( 無一物と言っている自分を捨てなさい )

 この僧は、この言葉で悟ったとか。 私たちは、捨てなきゃならない事ばかり多過ぎて話になりませんが、この最後の放下着を捨てるのが厄介ですね。 

◎ 禅語を味わう 13 「 閑古錐 」 (かんこすい)

 錐(キリ)は、ご存じ板に穴をあける道具ですね。 鋭さが命ですが、それがすり減ってしまった古い錐ということは、もう役に立たないくらいになってしまったという処。

 閑とは、暇な事なので、古い錐が使い物にならない事をさらに強めている。さて、一体何の事か・・・世の中では、使い物になる事が成功者とされ重宝されている。禅では、必ずしもそうではない。

 それはなぜなのか・・・山に登って頂上に立った(成功者)ら、いつかは、その山を降りなくては普通の生活が出来ないので、降りる必要がある。降りてしまえば、普通の人となる。

 その境涯を指すが、まだ1度も登っていない人とは違う。ところが見分けは付かない。この事を「悟了同未悟」(ごりょうどうみご)と言う。登って降りて来た人と、登らない人とは同じで見分けがつかない。 

◎ 禅語を味わう 11 「 喫茶去 」(きっさこ)

 趙州和尚がよく使ったといわれる言葉。質問に来た僧であっても、そうでない人へも、先ずは、「まー、お茶を飲みなされ」と言ったという。

 さて、どういう事かなと考えてしまう。特に、質問に来た修行僧は、そうであろう・・・あーでもない、こーでもない・・・老師は何を意図したんだろうか・・・

 ある日、ある僧は、趙州和尚に呼ばれ、いつものように言われた。「まー、お茶を飲みなされ」といわれた瞬間に悟りをひらいたと。

 さて、「 喫茶去 」この言葉に何があるのかな・・・ ? 

◎ 禅語を味わう 10 「 莫妄想 」(まくもうぞう)

 「妄想することなかれ」と読みますが、一般的に使っている妄想とは、将来を予想して夢見たり、何歳になった自分を思い浮かべたり、と色々な思いを廻らす事として使っていますね。

 仏法では、かなり違い、大小、善悪、新旧、得失、などのように相対する考えを止める事です。どうしても、善や得を取り入れて悪や失を遠ざけますね。これは仕方がないのですが、実は、表裏一体で付いて回ったりします。

 そうゆう考え方を止めてみると、より大きな世界が見えたり、物事にこだわらない自由な気持ちになったり、これまでとはまるで違った境涯が現れたりします。

◎ 禅語を味わう 9  「 白拈賊 」(びゃくねんぞく)

 白は、真昼の事、拈は取る、賊はそのままで、白昼の盗賊といつたところ。雪峰禅師が、臨済禅師の事を「白拈賊に似たり」と言ったようです。

 これは、師家が修行者の煩悩・妄想などを奪ってくれる事を指して言っているのでしょう。まるで、人の心が丸見えになっていて、ここにこれがあるな、といって狙いを付けている感じかな。